2008年7月13日 (日)

今日の礼拝

 今朝の礼拝説教は、小池牧師より、ローマ人への手紙6章から「新しいいのちで歩もう」と題して、救いの恵みについて、語られました。

 パウロは、救いを受け取っていない未信徒のことを「古い人」と呼び、「罪の奴隷」であり、「不義の器」であると表現しています。この「古い人」は、罪をご主人様のようにして、罪を犯すために、罪に浸りながら人生を歩んでいるのです。そういう人は、たとえ、最大限に努力して最善のことを成したとしてもすべて不完全であり、罪に汚れているのです。

 この「古い人」が、御霊に導かれながら、救いを受け取り、バプテスマを受けるとどういうことになるのでしょうか。それは、主イエス・キリストと一体となるという劇的な変化が起こるのです。キリストと一体となるとは、キリストの十字架と葬り、そして復活とも一体となることを意味します。すなわち、6章6節のとおり「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるため」なのです。「罪に対して死んだ」(6章2節)のがクリスチャンたちなのです。罪とは関係がなくなり、罪から解放されました。これは、人生に一度だけ起こって決して後戻りしないことなのです。

 ところが、「新しい人」は、けっして、どんな罪も犯さないのでしょうか。完全に罪を犯さなくなることは、私たちの体験的にも考えられないことです。これは、方向転換を意味します。罪の奴隷として、全行動が罪とがに汚れていた「古い人」から神の奴隷(しもべ)として、新しいいのちに生きるように方向付けられたのです。

 「新しい人」は、キリストの復活のいのち(永遠のいのち)とも一体となって、「いのちにあって新しい歩みをする」(6章4節)のです。これが聖化の道であり、ゴールは「キリストの似姿」なのです。

 「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義に器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」ローマ6章12節

 「古い人」を脱ぎ捨てたはずなのに、また探し出して、着慣れた服のように着てはなりません。あるいは「心地よかったなー」と懐かしんではいけません。キリストと一体とされ、キリストに接ぎ木された者として、復活のいのちに歩んでまいりましょう。

暑い日が続いています。今週も、体調が守られ、それぞれの持ち場、立場の中で主の栄光をあらわす器として用いられますように。

 

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2008年7月 6日 (日)

今日の礼拝

今日の礼拝では、ローマ人への手紙5章12~21節より「あふれるばかりの恵み」と題して小池牧師よりみことばのとりつぎがありました。

神様がはじめにおつくりになった人間アダムは神様によいものとしてつくられました。しかし、神様の命令をおかし、とって食べてはならないといわれた木の実を食べてしまいました。神様はそのさばきとして「死」をお与えになりました。こうして全人類は罪をもった存在となったのです。神様がモーセに与えられた律法によって人々は自分の罪を自覚させられたのです。

私たちは、自分の罪を大いに自覚し、その罪に泣く経験が必要です。その罪の自覚こそが、神とキリストの恵みへと向かわせるのです。自分は罪深く、神様の救いが必要なのだと思うことが救いへの道です。

アダムが「不従順」のひな型だとすれば、救い主キリストは「従順」のひな型です。ひとりの人の罪によって人類が「罪」に定められたように、ひとりの人キリストによって、恵みのゆえに「義」と認められたのです。それは恵みであり、すべての人に開かれていますが、残念ながらすべての人がこの恵みにあずかるのではありません。すべてとはそれを信じて受け入れる人すべてということです。

なぜ、神様は罪をアダムにおかさせたのか、という議論もありますが、今日の聖書の箇所ではこのように書かれています。

「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」ローマ5:20

神様のご計画ははかりしれなく、私たちにはそのすべてを知ることはできません。しかし、罪の自覚に苦しむ人々に、あふれるばかりの恵み、救いの道を備えてくださったのです。

もし、私たちがより自分の罪に悩み苦しみ、自分を自分で御しきれないと感じてきたなら、それは幸いなことです。こんな小さな弱き私たちを救ってくださった神様の愛の大きさに感謝することができるからです。

今週も神様の恵みがありますように。

試みのうちにある方々、病いや身内の介護のうちにある方々、旅の途上にある方々のために祈りましょう。

仲間神学生は学園の夏休みをむかえます。夏期伝道や所属教会、教団のキャンプの奉仕などがあります。お祈りください。

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2008年6月29日 (日)

今日の礼拝

今日の礼拝は、ローマ人への手紙5章1~11節より「義認の喜び」と題して小池牧師よりみことばのとりつぎがありました。

先週までは「義と認められる」ということについて学んできました。それは天上にて救われた時にまぎれもなくおこっているすばらしいことではありますが、実感がわかないということはあるかもしれません。今日は、主の前で義とされるということがどんなに喜ばしいことなのかについて学びます。

①神との平和をもっている喜び

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」ローマ5:1

神様との関係が平和である、すなわち神様の怒りがとかれて、正常な関係を回復していることが救われているということなのです。まちがいなく、神様。のまなざしは怒りからあわれみにかわっているのです。そのことを何度も確認し、喜びましょう。

②神の栄光にいたる希望を持っている喜び

「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」ローマ5:2

わたしたちは最終的にはキリストの似姿になるのです。これは神の栄光にいれられることです。まだ、手に入れていませんが希望があります。

③患難さえも喜ぶ

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」ローマ5:3-4

義とされた私たちは患難さえも喜んでいるのです。神を愛する者となったキリスト者にとって神がすべてのことを相働かせてすべてのことを益としてくださいます。それを信じるがゆえに患難を喜んでいると言えるのです。聖化されていく道のりにおいて患難はつきものです。苦しみや迫害をさける信仰生活なら、いつまでも練られることはありません。

④神の愛がそそがれていることの喜び

私たちに与えられた「義認」とそれに伴う喜びは、主の愛に根ざしていることなのです。主の愛は全く見返りを求めない愛です。

キリスト者の人生は「神様の愛を大いに喜ぶこと」と要約できるのではないでしょうか。私たちはいつも主なる神さまを喜んでいるのです。主に感謝しているのです。そのことが生活の中にあふれでて人々に伝わるのです。証となるのです。

snail今日はあいにくの激しい雨でした。午後から予定されていた集中トラクト配布は中止となりました。また日をあらためます。

cat(金)10時半から11時半まで「幼児とその母親の集い」がおこなわれます。

手遊び、かみしばい、からだを使った遊びなどを親子で楽しみませんか。子育て仲間がほしい方、相談をしたい方、元気に遊ばせる場所をさがしている方、どんな親子も歓迎です。無料です。子育て経験者、保育経験者がお待ちしています。

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2008年6月22日 (日)

今日の礼拝

Ca380104 今日の礼拝では、小池牧師よりローマ人への手紙4章1~12節から「すべての罪人が救われるために」と題してみことばがとりつがれました。

本日の箇所は3章の後半の「信仰義認」の教えを実証しようというとしている所です。

①アブラハムの場合 

当時のユダヤ人クリスチャンたちの中には、「信仰は大事だけれども、割礼も大事ではないか」と誤解している人が多くいました。そして、ユダヤ人以外のクリスチャンも割礼を受けるべきだと主張していたのです。律法を守らなければ救われないという考え方がまだぬけきらなかったのです。しかし、信仰によって義と認められるという救いの道は、新約時代に新たにできた教えではなく、旧約時代からある唯一の救いの道です。パウロはそのことを信仰の父祖といわれるアブラハムの事例から説明しています。

「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」創世記15:5,6

②ダビデの場合

パウロは続いてダビデの事例を取り上げています。

ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。『不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」』ローマ4:6~8

これはダビデの悔い改めの詩篇からの引用です。心からの悔い改めの祈りを恵み深い主が受け入れられました。行ないではなく、別の道で義とされたのです。

③唯一の救いの道

アブラハムは無割礼はまだ無割礼の時、信仰によって義と認められました。信仰の相続人は、割礼を受けているか受けていないかではなく、アブラハムと同じ「信仰によって義とされた」救いをうけている者です。

神は唯一であり、ある民族だけの神様ではありません。恵み豊かな神様はイエス・キリストを信じる者みな義と認めてくださる救いの道をもうけてくださったのです。この救いの道が唯一の道です。律法によらず、信仰によって救われるのです。

rain今日はあいにくの雨でしたが、予定通り、礼拝後に半年に一度のおおそうじをおこないました。会堂の窓ふき、ワックスがけをしました。そうじの後のカレーライスのおいしかったことといったらありません!!H姉は食前の祈りで「今日は、わたしたちの大好きな会堂のそうじができてありがとうございました」と祈っておられ、感謝でした。

chickH兄は、やむを得ず礼拝に出席できなかった時にこのブログを読んで説教の内容を確認されるとお話しくださいました。なんとか、わかりやすくまとめられるようこれからもつとめます。そして、神様の深い恵みが少しでも伝わることを祈りつつ・・・

今週も神様から力をいただいて歩んでいきましょう!!

新船橋キリスト教会は千葉県船橋市山手にあるプロテスタントのキリスト教会です。お問い合わせは下記まで

shinfuna-church@nifty.com

電話とFAX 047-432-0630

地図↓ ↓

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2008年6月15日 (日)

特別礼拝と研修会

Img_0654_2 本日は新鎌ヶ谷聖書教会牧師であり、アオシスミニストリー主宰の玉井邦美先生がおこしくださり、朝の礼拝の説教と午後の研修会の奉仕をしてくださいました。

朝の礼拝では、使徒の働き2章40~47節より「祝福される教会」と題してみことばがとりつがれました。(以下はこのグログの筆者がその要旨を独断によりまとめさせていただいたものです。文責はブログ筆者にあります。)

ここは主の教会であり、主が導いてくださいます。なんとか人を集めなくてはと、人の考えや方策が先行してしまい、神の思いがおきざりにされているということはないでしょうか。主が祝福される教会とは、どのような教会でしょうか。その特徴を初代教会から学んでみましょう。

①みことばを学び、それに従う教会

キリストがとらわれた時に逃げ出し、主を3度否んだあのペテロが、復活の主に出会い、そして、聖霊を受けた時に、大胆に主のみこと ばを語りました。聖霊によって大胆に人をおそれず語りました。そして多くの人が救われました。教会の誕生は人の計画ではなく、聖霊の働きであり、救われた人たちの集まりです。そして、最初に救われた主の弟子たちが最初にしたことは、みことばを教えることであり、人々は、その教えをかたく守っていました。主は、学ぶ人たちを成長させてくださいます。

②神を賛美し、礼拝する教会

礼拝は、救われた人たちの神に感謝する自発的な行為です。永遠のいのちを与えてくださった感謝をささげるのです。私たちは礼拝をささげるために救われたといっても過言ではありません。ですから、礼拝は受けるよりささげるものなのです。自分を出し惜しみしながら、恵みだけくださいというのはおかしなことです。いつも何かをうけようとすると失望も大きいのです。

③愛によって互いに仕えあう教会

初代教会の人たちは、いっしょにいて、それぞれの必要に応じて時には持ち物を分配していました。キリスト者の生き方はまわりの人の必要に気づかされる生き方にかえられます。みなさんのまわりには、孤独な人、生活に困っている人、思い苦しんでいる人はいないでしょうか。

④愛による交わりを楽しむ教会

救われた人の交わりは愛の交わりです。初代教会の人たちは、いつもいっしょにいて、共に祈り、交わりをしていました。そして、その中心にはキリストがおられるのです。私たちの教会の交わりは互いの徳を高める交わりとなっているでしょうか。

⑤生き生きとあかしのなされている教会

この生き方をみている人が必ずいます。主がこの群れの中に働いておられます。内にインパクトがあると、外にむかって伝道、あかしがされていきます。主が祝福してくださる教会に人数は関係ありません。同じ主が働いてくださるのです。

主に祝福される教会について5つのポイントでみてきましたが、これら5つが御霊に導かれ、バランスよく働いているでしょうか。みなさん、この教会の働きの一端を担っていきましょう!!

Img_0656 昼食をはさんで、午後は、研修会がありました。研修会は、「救いの恵みと御霊による成長」と題して、みなで先生の用意してくださったレジメにしたがって聖書を開きながら、新生、義認、聖化について学びました。私たちが救われたこと、また、その後の歩みもみな、みことばの裏づけがあり、みことばに約束された歩みであることをみなでもう一度確認することができました。玉井先生のご奉仕に心から感謝いたします。玉井先生は、新鎌ヶ谷聖書教会の牧会ともに、全国の教会をまわってみことばのとりつぎをしたり牧師夫妻や役員の研修や相談をおこなっておられます。(とても難しい聖書の教理もわかりやすく的確に語ってくださり、その様々な牧会経験とにじみ出てくるお人柄・・・・すてきな神様の器でした。)

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2008年6月 8日 (日)

今日の礼拝

今日の礼拝では、ローマ人への手紙3章21~31節より「神の恵みによる救い」と題して小池牧師より説教が語られました。

 先週まで、人間がいかに罪深いか、そして、自分のどうしようもない罪深さに絶望する必要を学びました。本気に絶望して、自らの悲惨さに嘆き悲しむ者が神に対してとつことのできる唯一の応答が「信仰」なのです。

 本日の聖書箇所では、信仰義認の時代がきたことを告げる喜びが語られています。律法の行ないでは決して完璧にそれを守り通すことはできず、神の前に正しいと認められることはできません。しかし、イエスキリストの十字架によって行ないによってではなく、信仰によって義と認められるという信仰義認の救いの道が示されました。これはとてもすばらしい知らせなのです。

 信仰義認は「神の恵みによる義」でもあります。それは、ただ、恵みによるのです。そして、値なしに賜物として与えられました。それは、キリストの犠牲による贖いによるのです。

 ですから、私たちは誇ってはなりません。代価なしに、ただ与えられた救いならば私たちが誇りとするものはないのです。

 わたしたちにできることは、自らの罪の悲惨に気づき、ただ恵みによって信仰によって与えられた救いを受け取り、神様が示してくださった愛に応答することです。それが、本当の意味で聖くされていくことにつながっていくのです。

 club来週は、新鎌ヶ谷聖書教会の玉井邦美師が礼拝の説教と午後の研修会の奉仕をしてくださいます。どうぞどなたでもご参加ください。

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2008年6月 1日 (日)

今日の礼拝

今朝の礼拝説教は、ローマ人への手紙3章前半から「すべての人が罪の下にある」と題して、3週連続で、人の罪の深刻さ、根深さの問題を取り上げています。

1から8節で、パウロは、ユダヤ人や異邦人たちが、疑問に思う質問を想定して、自ら質問して自らで答えるかたちで議論を展開しています。ポイントは、主なる神様が、絶対的に聖く、絶対的に正しいお方であり、人間は罪深く偽り者であるということです。神様は、人間の不真実や、人間の悪に左右されることのない絶対的な存在であることを強調しています。異邦人は、日本人も含めて、神と人との関係を相対的に考えやすいのです。また、ユダヤ人は、罪人が聖なるお方に招かれるという福音が理解できなかったのです。そういう両睨みの中で、パウロは、神の真実と人間の不真実(不信仰)を示そうとしたのです。

9節から20節では、すべての人が罪の下にあることを強調しています。19、20節の結論部分では、すべての人が、律法(人の努力や修養など)を行なうことによって、だれ一人、神の前で義と認められることはない、と、自力救済を完全否定しています。律法(良心の働きも含めて)は、かえって人に罪を自覚させるのです。罪を映し出す鏡のような役割が律法にあるのです。

まとめますと、人間を苦しめ、不幸にし続けている根本的な原因である罪の問題について、人間の努力や訓練、修養などの自力では、解決できないのです。これは、絶望を意味します。溺れている自分を自分で救出することはできないのです。それほどに悲惨な状態にあるのが人間なのです。完全な堕落状態(全的堕落)なのです。自分自身に絶望してください。その絶望の中から新しい希望が生まれるのです。自分に絶望する一週間を送ってください。来週は一筋の希望の光を語ります。

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2008年5月25日 (日)

今日の礼拝

 今日の礼拝では、ローマ人への手紙2章17節~29節「御霊による心の割礼こそまことの誉れ」と題して、小池牧師よりみことばのとりつぎがありました。

 前回に続き、人がいかに罪人であるかということが記されている箇所です。そして、ここでは特に偽善の罪についてふれています。ここでは当時のユダヤ人に対して書かれていますが、今のわたしたちにおきかえて、「律法」を「聖書」とおきかえてみることができます。

 みことばを通して、すばらしい救いが与えられているにもかかわらず、何の喜びもない、感謝もない、具体的な実践もないとするなら、聖書を誇りとしているあなたが、どうしてそれに反して、神を侮るのですかと追求されてもやむをえないのではないでしょうか。

 また、キリスト者には、律法の文字で規定された外的な割礼があるわけではありませんが、御霊による心の割礼を受けたものとして生きたいものです。聖霊による心の割礼こそまことの誉れなのです。

 今日は昼食後、聖書の学び会がありました。「神の御旨を悟る」というテーマでテキストにそって学んでいきます。(8回シリーズの予定)

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2008年5月18日 (日)

今日の礼拝

Img_0597_2 今日の礼拝では、4月から沖縄 宮古島よりTCUに入学された実習生の仲間さんがあかしをしてくださいました。クリスチャンホームに育ち、神様を信じていましたが、高校生の時にとても自分では背負いきれないと思うような試練にあったそうです。毎日泣いていた時に、あるクリスチャンが神様がどんなにすばらしいお方か、その体験や聖書のみことばを語ってくれたり、励ましてくれたりしたそうです。次第に心が神様に向き、聖書を再び開いたりするようになりました。心がいやされていっても状況はかわらないという中で、中高生キャンプに参加しました。そこで、自分のことだけで精一杯だった自分を反省し、これからは主のために生きたいと献身の決意をしたのだそうです。小さなこどもたちが大好きで、こどもに大人気の仲間さんです。これからの学びと教会生活が祝福されるようにみなさんお祈りいたしましょう。

 礼拝説教は、ローマ人への手紙2章1~16節より「神の正しいさばき」と題して小池牧師よりみことばのとりつぎがありました。このローマ人への手紙2章は、ユダヤ人の罪を鋭く指摘しています。

「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。」1、2節

 このユダヤ人の罪はわたしたちの罪でもあります。そして、天地万物を創造され人間をおつくりになった神様は全地をさばく権利をもっておられるのです。神様はすべての人が悔い改めて救われることを望んでおられます。しかしわたしたちは神様の慈愛と忍耐と寛容を侮ってはいけません。神様のさばきは各自のおこないに従って、えこひいきなく公正に、そして隠れたところにまで及ぶと記されています。これは、とても厳しいとおもえるかもしれません。しかし主なる神様が私たちの罪を怒られるということを知ることなしに、神様の深い愛とゆるしを体験することはできないのです。そして聖霊なる神様は私たちの罪深さを自覚させてくださるのです。

Img_0599 ところで、この3月より、わたしたちの教会では礼拝の後に、メッセージを聞いて感じたことなどを小グループにわかれてわかちあうという時をみじかくですがもちはじめました。そのために礼拝の開始時間を従来の10時45分から10時30分にはやめました。はじめてみると、自分が感じなかったことをわかちあうことで、新たな気づきがあり、とても新鮮な気持ちになり、とてもいいなあと思います。時々、感想から今の近況などに脱線?することもありますが、それもまたよしというか、なかなか毎週顔をあわせていてもお話をしない方の信仰にふれられて、恵みをいただくのです。牧師の説教をただ受け取るのではなく、それぞれが応答できるということはとても恵みなのだなあと感じています。

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5月23日(金)午前10時から11時半まで 子育て講演会「ほどほど子育てのすすめ」があります。キリスト兄弟団三鷹教会の池本ふみこ先生がお話をしてくださいます。5人のお子さんのお母さんでもあります。参加費はお茶お菓子つき500円です。どうぞご参加ください。

 

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2008年5月11日 (日)

ペンテコステ(聖霊降臨祭)礼拝

Ca380101 今日は教会暦でいうと、ペンテコステ(聖霊降臨祭)です。主イエス様が天に昇られる前、弟子たちに「助け主」を送るとの約束をしてくださいました。使徒たちが祈りのためにひとつところに集まっていると、聖霊が天からくだりました。この時から、力が与えられ、全世界に宣教のわざがひろがっていったのです。ですから、このペンテコステは宣教のはじまり、教会の出発点でもあるのです。

Ca380103 今日は母の日でもありました。母の日は昔、アメリカの教会で亡き母をしたったある娘さんがカーネーションをかざったことからはじまったともいわれています。教会学校(ハレルヤタイム)のこどもたちは、今日は、母の日のカードをつくりました。絵が飛び出すカードをつくったのですが、みんな、それぞれメッセージやお母さんの似顔絵などを書いていました。

今日の礼拝では、エゼキエル書37章1~14節より「息よ、四方から吹いて来い」と題して小池牧師より説教がありました。

エゼキエルは分裂後の南ユダ王国が捕囚され滅亡する前後に遣わされた預言者です。すでに北イスラエル王国は、アッシリヤによって捕囚されていました。当時の南ユダ王国では、「北は滅んだが、自分たちは大丈夫、決して滅びない」という変な楽観主義がはびこり、不信仰と怠惰に満ちていました。それが、結局は、南ユダ王国もバビロンに捕囚されてしまいエルサレムは陥落してしまったのです。今日の37章はエルサレム陥落後の落胆したエルサレムが描かれています。絶望した民に、希望のことばが預言されています。それは、再びイスラエルに戻るようになるという約束でした。

①わたしたちも、かつては墓の中の死人のようであったのにイエス・キリストによって救われたものです。それなのに、それを忘れて、楽観主義に陥っていないでしょうか。サマリヤの人とは違うと思った南ユダの人のように、世の中の人と比べそれに比べたら自分はましなのだと考えてはいないでしょうか。

②肉体があっても主の御霊が宿らなければ、それは生きたものとはなりません。今、主の息がなければ(魂の救いがなければ)それはむなしいものです。主と息のあった関係になっていますか。「干からびた骨」のようになってはいませんか。

③主なる神様は、「干からびた骨」でさえ生き返らせることができるお方です。わたしたちは、もう一度、回復される必要があります。主の御霊によって生きかえる必要があります。

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5月23日(金)午前10時より11時30分まで子育て講演会「ほどほど子育てのすすめ」 (講師:池本ふみこ先生 三鷹教会牧師夫人)があります。

茶菓つきで500円です。お子さん連れも歓迎します。お問い合わせ、お申し込みは、新船橋キリスト教会まで。

↓↓↓

新船橋キリスト教会 電話047-432-0630

e-mail  shinfuna-church@nifty.com

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2008年5月 4日 (日)

今日の礼拝

今日の礼拝では、詩篇47篇より、「主は昇って行かれた」と題して、小池牧師よりみことばのとりつぎがありました。

5月1日は教会暦では昇天日(キリストが復活後、弟子たちにあらわれた後、天に昇っていかれた日)でした。今日は昇天後主日となります。

今日の詩篇47篇は、昇天記念の詩篇ともいわれる箇所です。

「神は喜びの叫びの中を、主は角笛の音の中を、上って行かれた。」5節

勝利の主が民の大歓声の中を、自らの王座にのぼっていく姿、それはキリストの昇天を思わせます。主は、私たちの最後の敵、死の刺を抜き去り、大勝利をおさめて天に昇っていかれました。

私たちの主は、全地の主、全世界の国民をおさめるお方です。そして、大歓声で主を見送った私たちに、主は、助け主なる聖霊を送ると約束してくださいました。来週はその聖霊降臨祭(ペンテコステ)をむかえます。心から感謝し、お祝いしましょう。

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2008年4月27日 (日)

今日の礼拝

今日の礼拝では詩篇98篇1-9節より「主の救いを見よ」と題して小池牧師より御ことばが語られました。

1-3節では、主なる神様の素晴らしい救いの御業が語られています。この背景には、イスラエルの歴史的体験が考えられます。それは、エジプトからの脱出とバビロン捕囚からの解放です。

「主は、奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。」(1節)

しかし、主が成した過去の歴史的な出来事だけに限ったことではありません。新約時代に入って、世界中で、キリストの勝利と救いを体験したキリスト者たちが今も増え広がっています。

「地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている。」(3節) 

キリスト者は世界中で注目を集めているのです。「クリスチャンはどんな生き方をしているのだろうか?何を考え、何を成そうとしているのか?」と関心を持たれているのです。

ところが、それだけで留まりません。この詩篇はもっともっと輝かしい未来を詠っているのです。それは、世の終わり、キリストの再臨の時に否応なしに、全世界の人々は、我らの神、イエス・キリストの驚くべき救いの御業を目撃することになるのです。主イエス様は十字架にかかる前に予告しております。

「人の子が来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。」 

空を見上げれば、誰だって分かるように、主イエス様は来臨されるのです。そして、すでに眠ってしまったキリスト者たちも、現に生きているキリスト者たちも、天に引き上げられるのです。「地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている」のです。

ですから、賛美を捧げましょう。主は真実はお方、聖書の御ことばの一点一画さえも廃れることなく実現なさるお方なのです。430年もエジプトで奴隷だった民が滅びることなく、約束の地に帰って来たのです。一度滅んだ国が、よみがえったように再建されたのです。我らの主は、そのような実績を積んでおられる王なる神なのです。

大いに主をほめたたえましょう。賛美いたしましょう。4-8節の賛美への、招きを読みましょう。特に6節にあるとおり、主は王なのです。王権は主のものなのです。王なる主に逆らっては生きていくことができないのです。

まとめましょう。この詩篇は、あまりにも孤高で、私たちの頭上の彼方を通り過ぎていくような、そんな感じさえしてきます。しかし、王権をもっておられる主イエス・キリストが、この地上を治め、私たちの歴史を治めていることに間違いありません。「歴史」を英語で「ヒストリー」といいますが、これは、「ヒズ ストリー」から来ていると言われています。「彼の物語」、彼とは誰ですか。主イエス・キリストに間違いありません。キリストの物語が歴史なのです。

今日、教会の中には、何となく行き詰まり感が漂っています。この世界も悪と不正がはびこり、貧しい者や弱い者が虐げられています。しかし、決して、このままでは終わらないのです。イエス・キリストが十字架上で処刑され葬られて、それだけで終わらなかったように。大どんでん返しがあるのです。ですから、私たちは顔を上げて、天を見上げ、大声で主を賛美いたしましょう。主イエス様が再び来られることを期待しながら待ち望みましょう。私たちの希望は、決して失望で終わらないのです。苦しみながら耐え忍ぶように期待しているのではありません。主は必ず約束を守ってくださるお方、約束を違うことがないのです。

「終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。」(第二コリント13章11節)

きょうは、毎年恒例の墓地を共有する近隣5教会合同の墓前礼拝がラザロ霊園(千葉県我孫子市)でありました。とてもよい天気の中、午後3時より礼拝と教会紹介がありました。天国の希望を感じることができました。

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2008年4月20日 (日)

今日の礼拝

Img_0575 今日の礼拝では、H兄(写真)の証詞がありました。1年半ほど前、異常な血圧の低下、食欲不振、体力減退などに苦しまれていました。病院で検査を重ねても、「異常なし」とのこと。しかし、明らかに体力は弱られ、歩行困難な状態になり、教会のみなも大変心配し、また、何か原因があるのではと感じでいました。そして、半年前、療養もかねて娘さん一家が住むニュージーランドへと向かわれました。しかし、そこで、肺炎で緊急入院。大変な思いをされたのですが、そこで信じられないことがおこったのです。ニュージーランドの病院で検査を受けると、今までわからなかった血圧低下の原因がほぼ特定されたのです。

それからのH兄の病状はみるみるうちによくなり、今年のはじめに帰国された時は、以前のような元気なお顔、お声になっているではありませんか。本当に驚きました。副作用の影響も考えて薬を調節しながら治療を続けていらっしゃっており、まだ歩くのには多少の困難もあるとのことですが、兄弟は、以前のようでなくてもこんなにも回復していることに大きな感謝をささげているのです。

なぜ、なぜ、と思うような今までの道のりをH兄は、すべて感謝だとうけとめていることに励ましをうけました。H兄が今日の証詞の最後に引用されていた教父アウグスチヌスの「告白」の一文、また詩篇71篇がとてもこころにひびきましたのでこちらにものせさせていただきます。こうして、共に喜び、礼拝をささげることができる幸いをいやし主であられる神様に心から感謝します。

「愛する人が病み、その脈拍が明らかに悪い兆候を示している場合、彼の回復を望む者はみな、一緒に気をもみます。

 彼が回復に向かい、いまだ以前のようには 力強く歩けなくとも、すでに今までになかったような大きな喜びがあります。それは、以前元気で力強く歩いていた時には、味わえなかった喜びです。」アウグスチヌス「告白」より

 「あなたは私を多くの苦しみと悩みとに合わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。」詩篇71:20

今日の礼拝説教では、小池牧師より「主は私の大牧者」と題して詩篇23篇よりみことばのとりつぎがありました。

羊は飼い主が守り導かなければ、暗やみに迷い、敵に簡単にやられてしまいます。そんな羊のようなわたしたちの大牧者、ひつじかいと主はなってくださいます。

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」詩篇23篇

presentt-shirt今日は礼拝後にミニバザーがありました。洋服や日用品、また手作りのパンやケーキ、お弁当などいろいろなものがならびました。教会のメンバーだけでなく、友人、知人やご近所の方などが来て下さいました。あまりに盛況で、写真を撮り忘れてしまいました。準備をしてくださったみなさん、お買い上げいただいたみなさん、ありがとうございました。riceballbread 

教会へのお問い合わせは下記までお願いします。ホームページのお問い合わせコーナーからは通じなくなっています。

電話:047-432-0630

メール:shinfuna-church@nifty.com

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2008年4月13日 (日)

今日の礼拝

Img_0571 今日の礼拝では、小池牧師より「なげきから賛美へ」と題して、詩篇22篇よりみことばのとりつぎがありました。

詩篇22篇は受難の詩篇として有名です。「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」(1節)は十字架上のイエス様のお苦しみの預言として知られています。人はこの箇所をみずからの苦難と重ね合わせます。しかし、今日はあえてこの22篇の後半部分に目をとめます。

22篇後半は、嘆きから賛美へとかえられていきます。主は、悩み苦しむ者をかえりみてくださる方です。

「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。」24節

また、主は全世界の王なるお方です。やがて世界の果て果てからすべての人々が主なる神様の御前に集まってくるのです。

「地の果て果てもみな、思い起こし、主に帰って来るでしょう。また、国々の民もみな、あなたの御前で伏し拝みましょう。まことに、王権は主のもの。主は、国々を統べ治めておられる。」27、28節

さらに、主の恵みは、世代を超えて、宣べ伝えられるのです。

「子孫たちも主に仕え、主のことが、次の世代に語り告げられよう。彼らは来て、主のなされた義を、生まれてくる民に告げ知らせよう。」30、31節

私たちは、やがて、必ず主の御前に帰るようになるのですから、本気、主の御前に立ち返って、主の恵みを受けて、賛美と喜びに満ちた人生を出発しようではありませんか。

私たちキリスト者は嘆きではおわりません。必ず主は答えをくださいます。そして、そのことは今にわかるのです。

今年度東京キリスト教大学からの実習生はこの春、沖縄の宮古島から入学された仲間さんです。今日は出身教会の瑞慶山牧師夫人とともに来会されました。こども大好き、スポーツ大好きのすてきな姉妹です。どうぞ、よろしくお願いします。

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2008年4月 6日 (日)

今日の礼拝

Img_0556 今日の礼拝では、小池牧師より、詩篇4篇からみことばの取次ぎがありました。

詩篇4篇は、ダビデがその息子アブシャロムの謀反によって、王位といのちを狙われている時のものであるとされています。

自分の息子にいのちを狙われる父親の気持ちはいかばかりでしょうか。ところが、ダビデは、腐ることなく、「義なる神」にあわれみを祈り求めるのです。「あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。」1節

私たちの人生においても、この世の生業(なりわい)だけに終始しているとするならば、本当に殺伐とした砂漠を歩んでいるような人生になるでしょう。主のみ前に出ることが許されていることこそ、何にも代え難い恵みなのです。心が死んでしまいそうな「多忙」があるならばこそ、主の御前に出る時間を聖別すべきです。主は困難なときであっても、あなたにゆとりを与えてくださるお方なのです。

今週の中心聖句は、3節です。「知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。」

聖徒とは、主の愛と憐れみを受けて主に従って行こうとする信仰者のことを指します。そういう聖徒たちを、主は、スペシャルに扱うのです。全く別扱いで、恵みを与えてくださるのです。だからこそ、「恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。・・・主に拠り頼め。」(4、5節詩人は賛美するのです。

今朝は、復活後第二の主日でもあります。そのことから特に7、8節「あなたは私の心に喜びを下さいました。・・・平安のうちに私は身を横たえ、すぐに、眠りにつきます。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」に注目します。

主の復活を喜び、よみがえりの希望に生きる私たちは、平安の内に、肉体の死を迎えることができるのです。死んで終わりではなく、よみがえりの希望に安心しながら、身を横たえ、すぐに眠りにつくことができるのです。そして、主が用意されている天上の住まいに安らかに住まわせて頂けるのです。

主はご自分の聖徒たちを特別に愛されているのです。この確信に立って、主に憐れみを受け、贖い出された群れとして、気高く歩んで行こうではありませんか。

今日は聖餐式、役員就任式がありました。

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4月20日の礼拝後、ミニバザーをいたします。日用品、雑貨、被服、手作りケーキなどがあります。どうぞのぞきにきてください。

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2008年3月30日 (日)

今日の礼拝

Img_0515 Img_0518 今日は墓地を共有する近隣5教会の講壇交換がありました。新船橋キリスト教会には市川福音キリスト教会牧師であり、東京基督神学校校長の山口陽一先生がみことばのとりつぎをしてくださいました。(以下は説教をブログ筆者がかきとめてまとめさせていただきました。)

説教の聖書箇所はホセア書1章9~10節、ペテロの手紙第一2章3~10節でした。ペテロの手紙第一は、ペテロから小アジヤの「散って寄留している」「選ばれた人々」へむかってかかれた手紙です。迫害されてエルサレムから散っていた人々は、安定とは程遠い、困難や苦しみがあったでしょうが、心は喜びに満ちていました。新船橋キリスト教会も、新会堂をえて、安住したかのようですが、実はこの世にあってはまだ寄留しているのです。目指すのはまだ先、私たちが集まるのは天の御国なのです。

それでは、寄留している地上の教会は何のためにあるのでしょうか?

「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」ペテロⅠ2:10

神の民でない者が神の民とされるということは旧約聖書から記されていることでもあり、これは、あたり前でない神様のご計画です。神の裁きが与えられるはずの人がゆるされること、これはあわれみ、恵みなのです。私たちが受けるべき裁きをイエス・キリストが受けてくださったのです。

自分たちが何者であるか、地上の教会が何であるか、それは、あわれみのゆえに存在するものなのです。あわれみを受けた私たちがその喜び、感謝を表すのにしすぎはありません。なんとかして、そして、あらゆる方法で、受けた恵みを表していきましょう。そして、それを用いて働いてくださるのは主ご自身なのです。

山口師をかこんで昼食後、トラクト配布にでかけました。説教のなかでも、先生は、神様から受けた驚くべきあわれみの喜びをあらわす方法はいろいろありますが、あらゆる方法を用いていきましょうと、励ましてくださり、先生もともに参加してくださいました。小さな群れには大きな励ましとなりました。向かう途中で、馬込沢キリスト教会での説教奉仕を終えて戻ってきた小池牧師とも合流し、塚田駅周辺地域にトラクトを配ることができました。今回は、今まであまり配ることのなかった地域にもいくことができ、感謝でした。小さな小さな働きですが、神様のあわれみと恵みを受けている感謝をあらわすことができることは大きな恵みなのだとあらためて実感するひとときとなりました。

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2008年3月23日 (日)

イースター礼拝

イースターおめでとうございます!!

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イースターは、クリスマス(キリスト降誕祭)ペンテコステ(聖霊降臨祭)とならんで、キリスト教の大きな喜びの時です。主イエス・キリストが復活したことを祝う復活祭です。

今朝は、イースター礼拝の前に、こどもたちを対象とした、イースターエッグハンティング(たまごさがし)をしました。会堂のあちらこちらにいろいろな袋や箱にかくされた卵(今年は卵型のカプセルにお菓子がはいっているものを用意しました)をみんなでさがすのです。以前、教会のこどもの集会などにきてくれた子には招待状をだしてありました。それをみて、12人のこともだちがあつまりました。楽しく、たまごをさがした後は、イースターのお話をききました。

今日の礼拝はおとな、こども合同のイースター礼拝でした。今日は聖歌隊の特別賛美や、キャンプに行った姉妹のあかしなどがありました。

礼拝後は、恒例のもちより愛餐会がありました。

「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。」  マルコ16章6節

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2008年3月16日 (日)

今日の礼拝

Img_0488 今日は教会暦でいうと、棕櫚(しゅろ)の主日です。今日から受難週にはいり、イエス・キリストが十字架の苦しみをおってくださったことを思いながらすごす時です。そして、今週の金曜日が受難日、来週23日は復活祭(イースター)となります。クリスマスとならぶ教会の最も重要な季節ともいえるでしょう。

今日の礼拝では、イザヤ書50章より「神である主が、私を助ける」と題して、小池牧師より説教が語られました。この50章には十字架の苦難のイエス様を預言する箇所があります。

「私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。」イザヤ書50章5~6節

これは、イエス様の姿そのものです。そして、わたしたちもこのイエス様のお姿のように、従順な主のしもべとなりたいものです。

わたしたちが、輝いていけるのは、主の輝きを反射して生きる時です。主の光をいただいて、その御名に信頼して歩んでいきましょう。

来週の礼拝はイースター礼拝です。大人もこどももいっしょに礼拝をします。また、その礼拝に先立って、朝9時15分からイースター エッグハンティング(たまごさがし)があります。ぜひ参加してくださいhappy01

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2008年3月 9日 (日)

今日の礼拝

Ca380092 今日の礼拝では、詩篇51篇1~12節より「私を罪からきよめて下さい」と題して、小池牧師より説教がありました。

偉大な信仰者としても知られるダビデ王がおかした罪はあまりにも大きな罪でした。他人の妻をうばい、その夫を戦地に出向かせて殺してしまったのです。その罪を預言者ナタンに指摘され、悔い改めたダビデの祈りが今日の箇所です。

このダビデの罪は非常に衝撃的なもので、わたしたちにはかけ離れているように思えるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。わたしたちのおかす罪とダビデの罪は異なるのでしょうか?神様の目に罪の大小はありません。

ダビデは「私はあなた(神様)に、ただあなたに、罪を犯し」と悔いています。私たちは隣人との関係で悩み、また、罪をおかしますが、本当に大切なのは、実は、神様との関係なのです。神様とのいのちの関係が構築できなければ、私たちはこの世の波風に翻弄されてしまいます。こんな私でさえも。受け入れて愛をもって救ってくださった主にたちかえりましょう。

来週は受難週をむかえます。

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」詩篇51:17

本日で、一年間実習奉仕をしてくださった菊地姉、竹本姉が実習を終えました。ありがとうございました。

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2008年3月 2日 (日)

今日の礼拝

Ca380091 今日の礼拝では、ヨハネの福音書14章25~31節より「キリストの平安を受けよ」と題して小池牧師より説教がありました。

「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」ヨハネ14:31

14章の最後のこのみことばは印象深いです。しかし、まだ、イエスさまの弟子たちへの言葉は15章にも続いています。まだ出発する物理的状況ではないようですが、不安と恐れの中で心を騒がせている弟子たちの状況の中で、さあ、いっしょに出発しようと励まされるイエス様の愛があります。わたしたちに恐れずにいくように命じる力がイエス様にある確かな理由があります。

①イエス様がおくってくださった助け主なる聖霊は、みことばを私たちに思い起こさせてくださいます。

②イエス様はご自分の平安をお与えになると約束してくださいました。これはキリストの平安です。これは決してとりさられることのない平安です。

③イエス様は、くりかえし、「必ず戻ってくる」と約束してくださいました。一時的に望みを失うことはあるかもしれない、しかし、必ずよみがえりの主が再びこられます。

わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。・・・あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」ヨハネ14:27

わたしたちの教会で2年間にわたり実習奉仕をしてくださった天願兄は、今日で実習を終えました。ありがとうございましたclover

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2008年2月17日 (日)

今日の礼拝

Ca380081         今日の礼拝では、東Ca380083_2 京キリスト教大学4年生の菊地神学生がみことばのとりつぎをしてくださいました。

ローマ人への手紙4章17~25節より「望みを抱いて信じる」と題しての奨励でした。アブラハムは、「望みえないときに望みを抱いて信じました。」神様の約束を疑わずに信じ、その信じる信仰によって義とされたのです。

わたしたちには突然の悲しみや、困難がふりかかります。その困難をどのように受け止めているでしょうか。アブラハムのように希望を抱いて信じることができるでしょうか。

困難にぶつかった時、悩むこと、絶望することは簡単です。そのような時こそ、望みをいだき、見えない神様にたよることは難しいことですが、わたしたちには与えられた約束、希望があります。主からの約束をいただいた者として、勇敢にでていきましょう。

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2008年2月10日 (日)

今日の礼拝

Img_0386 今日の礼拝では、ヨハネの福音書14章7節~14節より「父なる神への道」と題して、小池牧師より説教が語られました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と語られるイエス様のことばを聞いても、弟子たちはなお、その意味を理解することはできませんでした。

ピリポは「主よ。私たちに父を見せてください。」とイエス様に言うのです。

イエス様は言われました「わたしを見たものは父を見たのです。」イエス様は、父なる神様のみこころのままに語られました。人としてうまれ、人として悩み、人の苦しみを味わってくださいました。さばきの神ではなく、死の呪いを滅ぼされたのです。

「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」

 これは福音の世界的な広がりをいっています。世界宣教の働きがわたしたちに委ねられています。また、主の名によって祈ることは、主のみこころにかなった祈り求めになります。わたしたちも主のわざをにないましょう。

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2008年2月 3日 (日)

今日の礼拝

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昨夜から久しぶりの大雪でした。あしもとの悪いなか、愛する兄弟姉妹のみなさんが礼拝にこられました。いつもは車のとことを徒歩や電車などでこられる方もいました。

今日の礼拝では、ヨハネの福音書13章36節~14章7節より「道・真理・いのち」と題して、小池牧師より説教が語られました。

十字架を目前にした最後の晩餐において、イエス様が弟子たちに互いに愛し合うようにあつく語られたのに、弟子たちはそのことに応答しませんでした。彼らの関心事は、イエス様はこの後いったいどこへいってしまうのですか?自分たちはどうなってしまうのか?ということでした。

ペテロがイエス様の預言どおりに、3度主を知らないといってしまうほど、弟子たちのこれからの歩みは悲惨なものです。私たちは、イエスを主と告白しているがゆえに直面する試練にあった時、どうするのかが問われています。

しかし、わたしたちは心配する必要がありません。

それは、第一に、私たちには、天に住まいがすでに用意されているからです。そのことはイエス様ご自身が約束してくださっています。

第二に、イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と語られたからです。道とはキリストそのもの、私たちの伝道はキリストをおしらせすることです。導くのは主ご自身がしてくださいます。また、イエス様は、そのみことば通りに生きられました。そして、主は、死んだものの神ではなく、生きたものの神です。それは、永遠のいのちにつながるいのちです。

弟子たちは、まとはずれとも思える問いを主になげかけましたが、それにも主はこたえてくださいました。私たちも、もっともっと、主にたずね求めていいのです。祈り求めればよいのです。(説教要旨より)

 

 とても、寒い1日でしたが、今日、会堂に活けられた花は、春を思わせる花でした。菜の花、梅など・・・・もうすぐ春がやってきますね。

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2008年1月27日 (日)

今日の礼拝

Img_0353 今日の礼拝では、ヨハネの福音書13章31~35節より「キリストの弟子をめざして」と題して、小池牧師より説教がありました。

今日の聖書の箇所は先週に続き、最後の晩餐における主イエス様のみことばです。弟子のユダがイエス様を売り渡すために出て行った後、イエス様は残された弟子たちに語ります。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」ヨハネ13章35節

①何が新しいのか?互いに愛し合うということは古くからいわれてきたことのようにも思えます。それでもわたしたちにはなかなか実践できないことです。だからこそ、新鮮であり新しいのです。そして、何より、イエス様ご自身が弟子たちの洗足や、この後の十字架によって愛の完全なかたちを示されたのです。

②なぜ愛し合うことが戒めなのでしょうか?本来、愛し合うことは内から出てくることで、命令されることではないはずです。しかし、主イエス様は、愛し合うことをあえて、戒めといわれました。そのことをわたしたちは真摯に受け止め、愛に生きる決意と覚悟が必要です。

③キリストの弟子を目指すために わたしたちはキリストのみことばにとどまり、互いに愛し合う関係を気づいていきましょう。その生き様を他の人がみてキリストがあかしされるのです。

今日は、ハレルヤタイム(教会学校)に3歳のMちゃんが新メンバーとして加えられました。小さなおともだちでもイエスさまのお話をよくきき、さんびかをいっしょにうたう姿にとても感動しました。

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2008年1月20日 (日)

今日の礼拝

今日の礼拝では、ヨハネの福音書13章21~30節より「裏切りの夜」と題して、小池牧師より説教がありました。

この聖書の箇所は最後の晩餐で、イエス様が弟子たちの足を洗い、また、弟子たちに語りかけられたところです。イエス様は弟子のひとりのユダがご自分を裏切り、売り渡すことを知っておられました。そして、それを告げるのです。

しかし、弟子たちは、イエス様の言葉を聞いても、ユダとのやりとりを聞いても、それに気づきませんでした。それは、すべての弟子たちがイエス様の十字架から逃げていたからです。

同じように、わたしたちは、無知なものです。しかし、イエス様はそれをおしかりにはなりませんでした。大切なことは、自分は無知なものだと自覚し、謙遜に神様に祈り求めていく姿勢なのです。

また、イエス様は、裏切りのユダをも愛されました。イエス様は主人が客をもてなすようにユダにパン切れをお与えになりました。私たちは、聖餐式で、主のパンを受けるとき、もう一度、自分自身の信仰を吟味したいものです。

「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」ヨハネ1:4-5

今日は礼拝、昼食後、座談会、井戸端会がありました。

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2008年1月15日 (火)

1月13日の礼拝

Ca380071 1月13日の礼拝では、詩篇29篇1~11節より、「栄光と力、主に帰せよ」と題して、小池牧師より説教がありました。

「力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力とを主に帰せよ。」詩篇29篇1節

わたしたちは、力の限り、主を礼拝いたしましょう。そのために、大いに備えましょう。なぜなら、主は賛美されるべきお方なのです。

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2008年1月 6日 (日)

今日の礼拝

今日の礼拝は2008年になって最初の日曜礼拝となりました。今日1月6日は、教会暦でいうと顕現祭にあたります。これは、キリスト誕生の後、東方の博士たちが星をたよりにベツレヘムにやってきて幼子を礼拝したことを記念する日でもあります。欧米では、この顕現祭までクリスマスを祝い、飾りなどをかざっていることが多いようです。日本では12月25日をすぎると、デパートなど商業施設ではさっとお正月の門松などのかざりにかわってしまうことが多いようで、少し残念です。わたしたちの教会では、今日、礼拝後、クリスマス飾りの後片付けをしました。

本日の礼拝では、エペソ人への手紙3章より「神の奥義をすすめる教会」と題して、小池牧師より説教がありました。

キリストの福音によって、ユダヤ人だけでなく異邦人にも救いがもたらされました。これは神の奥義です。そして、その奥義をしった教会には、福音を伝えるという使命があるのです。

 

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2008年1月 1日 (火)

元旦礼拝

Img_0329 2008年がスタートしました。

あけましておめでとうございます。新船橋キリスト教会のために、お祈りしてくださっているみなさん、どうぞ、今年も、神様の守りがありますように。

そして、この教会が今年も、主のわざに励んでいけますようお祈りください。

本日は元旦礼拝がありました。

ヘブル12章2節より「イエスから目を離さないで」との題で小池牧師よりメッセージがありました。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」これを昨年に続き、今年もテーマ聖句としてかかげていきます。

なぜ、わたしたちはイエスさまから目を離してはいけないのでしょうか?

①「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と書かれているからです。

②「わたしはいのちのパンです」(ヨハネ6:48)と書かれているからです。イエスさまは永遠のいのちを左右するパンなのです。

③「わたしは世の光です」(ヨハネ8:12)と書かれているからです。闇に対するのは光です。この暗やみのような世界のなかで、イエスさまの光が希望なのです。

④「わたしは羊の門です」(ヨハネ10:7)と書かれているからです。羊の門番はどの羊が囲いに入るべきか知っています。門を通してでなければ囲いに入ることはできません。

⑤「わたしはぶどうの木です」(ヨハネ15:1)と書かれているからです。わたしたちはぶどうの枝です。木であるイエス様につながるということは、永遠のいのちにつながるということなのです。

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2007年12月26日 (水)

クリスマスイヴ礼拝

12月24日の夜7時より、クリスマス・イヴ礼拝をいたし