今日の礼拝
今朝の礼拝説教は、小池牧師より、ローマ人への手紙6章から「新しいいのちで歩もう」と題して、救いの恵みについて、語られました。
パウロは、救いを受け取っていない未信徒のことを「古い人」と呼び、「罪の奴隷」であり、「不義の器」であると表現しています。この「古い人」は、罪をご主人様のようにして、罪を犯すために、罪に浸りながら人生を歩んでいるのです。そういう人は、たとえ、最大限に努力して最善のことを成したとしてもすべて不完全であり、罪に汚れているのです。
この「古い人」が、御霊に導かれながら、救いを受け取り、バプテスマを受けるとどういうことになるのでしょうか。それは、主イエス・キリストと一体となるという劇的な変化が起こるのです。キリストと一体となるとは、キリストの十字架と葬り、そして復活とも一体となることを意味します。すなわち、6章6節のとおり「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるため」なのです。「罪に対して死んだ」(6章2節)のがクリスチャンたちなのです。罪とは関係がなくなり、罪から解放されました。これは、人生に一度だけ起こって決して後戻りしないことなのです。
ところが、「新しい人」は、けっして、どんな罪も犯さないのでしょうか。完全に罪を犯さなくなることは、私たちの体験的にも考えられないことです。これは、方向転換を意味します。罪の奴隷として、全行動が罪とがに汚れていた「古い人」から神の奴隷(しもべ)として、新しいいのちに生きるように方向付けられたのです。
「新しい人」は、キリストの復活のいのち(永遠のいのち)とも一体となって、「いのちにあって新しい歩みをする」(6章4節)のです。これが聖化の道であり、ゴールは「キリストの似姿」なのです。
「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義に器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」ローマ6章12節
「古い人」を脱ぎ捨てたはずなのに、また探し出して、着慣れた服のように着てはなりません。あるいは「心地よかったなー」と懐かしんではいけません。キリストと一体とされ、キリストに接ぎ木された者として、復活のいのちに歩んでまいりましょう。
暑い日が続いています。今週も、体調が守られ、それぞれの持ち場、立場の中で主の栄光をあらわす器として用いられますように。
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