2009.3.29礼拝と下川牧師就任式

Img_1231 Img_1241      Img_1243     本日は新潟へ転任する小池牧師の新船橋キリ スト教会での最後のみことばのとりつぎとなりました。ヨハネの福音書18章1~14節から「主のことばはわたしたちを撃つ」と題して説教がありました。

十字架を前にしてイエス様が逮捕されるところです。イエス様ひとりをつかまえるのに1隊の兵士(およそ600人)たちがせまってきました。主イエス様の「誰を捜すのか」との問いに、兵士らは「ナザレ人イエスを」と答えます。その答えにイエス様は「それはわたしです。」(ギリシャ語で エゴー エイミ・・・・わたしは ある 者です、の意)と言われました。その非常に力ある言葉に、そこに集まった兵士らは倒れます。主イエス様のことばはたった一言で悪を倒す力があるのです。それは、まことの神であるからです。

また、主イエス様は弟子たちをかばってくださいました。よく、弟子たちはイエス様を見捨てたと語られますが、「だれひとり失われることのないため」、イエス様の方が、弟子たちを無傷で逃れさせてくださったのです。

この教会の新しい歩みも、まことの神がみことばを持って歩んでくださり、また、だれひとり失われることのないようにわたしたちをかばってくださいます。

礼拝後13時半より、北総大地キリスト教会牧師、千葉宣教区長の藤田 敦牧師司式により、下川羊和牧師の就任式がおこなわれました。

また、午後2時より、テレース・ホリスベルガー元宣教師の結婚祝い会、下川師歓迎会、小池牧師送別会がおこなわれました。

この教会の設立と成長に大きく関わってくださったテレース先生がご主人をともなって来日してくださったことは教会の大きな喜びとなりました。

どうぞ、この教会の新しい出発のためにお祈りください。

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この教会のホームページとブログ(教会の最新情報)ですが、新しい牧師を迎え、新しいものに替える予定です。したがって、このブログの更新も中止いたします。教会の礼拝・祈祷会・各集会の時間帯は今まで通りです。

お問い合わせは下記まで

電話 047-432-0630(今までとかわりありません)

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2009.3.22主日礼拝

本日は、墓地を共有する近隣の5教会の講壇交換でした。当教会には、行徳キリスト教会の山本真仕牧師がこられてみことばのとりつぎをしてくださいました。

本日の説教箇所はマタイの福音書9章9節~17節で「あらたな恵みに備えて」と題してみことばをとりついてくださいました。

新船橋キリスト教会は新たな牧師を迎えて新年度をスタートさせようとしていますが、変化がある時は恵みの時でもあります。神様は時に、あたらな風を通して、教会を祝福させてくださいます。新しいことをはじめることや受け入れることは、しばしば人間にとって難しいことです。

主イエス様が地上にこられた時も変化の時でしたが、パリサイ人や律法学者たちは、自分たちの固定概念があり、イエス様を受け入れることができませんでした。イエス様はそのことを古い皮袋に新しいぶどう酒にいれるようだとたとえました。古い皮袋に新しくこれからまだ発酵するぶどう酒を入れるなら、袋はその膨張にたえられなくなり破れてしまいます。袋もぶどう酒もどちらもだめになってしまうのです。地上に変化をもたらし、新しい教えをもたらされたイエス様のことばでさえ、固定概念にかたまった律法学者たちにとっては、つまずきになってしまったのです。

わたしたちは、神様のみことばである聖書を読み込むのでなく読み取りましょう。そして、神のみことばに聞きましょう。神の思いに心を向けましょう。自分の考えを優先させるのでなく、主が何を望んでおられるのかをお聞きしましょう。

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3月29日(日) 礼拝後 13時30分より 

下川 羊和師就任式

司式:藤田 敦師(千葉宣教区長、北総大地キリスト教会牧師)

3月29日(日) 午後2時より 

テレース・ホリスベルガー元宣教師結婚お祝い会

下川師歓迎会・小池師送別会

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重要なお知らせ

新船橋キリスト教会が属する日本同盟基督教団の教団総会において3月19日、新船橋キリスト教会の牧師の異動についての正式発表がありましたので、ここにお知らせいたします。

わたしたちの教会においてはすでに1月の臨時教会総会において決議済みであり、3月末の牧師交代にむけて備えてまいりました。

新船橋キリスト教会では、下川 羊和(よな)師を主任牧師としてお迎えします。

どうぞ新たな牧師を迎えての教会の歩みのためにお祈りください。

なお、小池牧師は新潟県の新津福音キリスト教会へ転任となります。

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3月29日(日) 礼拝後 13時30分より 

下川 羊和師就任式

司式:藤田 敦師(千葉宣教区長、北総大地キリスト教会牧師)

3月29日(日) 午後2時より 

テレース・ホリスベルガー元宣教師結婚お祝い会

下川師歓迎会・小池師送別会

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2009.03.15主日礼拝

 今朝の説教は、先週の続きで、ヨハネ17章20-26節から『主の御心は教会の一致』と題して、小池牧師から御ことばの取り次ぎが行なわれました。

 この箇所は、イエス様の直接の弟子たちが、御名と御ことばとによって聖め別たれて、派遣されることによって、伝道された教会のために、主イエス様が、とりなしの祈りをしているところです。

 特に強調されていることは、一つになることです。すなわち「教会の一致」です。なぜ教会が一致しなければならないのか?その理由は、21節の通りです。「・・・父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」

 教会が一つになることによって、主イエス・キリストが父なる神様から遣われた真の主なる神であることが人々に証され人々が信じるようになるためなのです。

 また、教会が一致しなければならない理由は、23節「・・・彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」

 教会が一つになることによって、教会が父なる神様に愛されていることを世の人々が知るようになるためなのです。

 私たち(教会)は、主イエス様のこのような祈りによって、支えられているのです。それにしても、教会の一致という問題は、歴史的な課題なのです。今日でも、プロテスタント、カトリック、ギリシャ正教など異なることが多いのですが、何よりも、主イエス・キリストが尊ばれていることが大切であり、一致の大前提なのです。

 主の祈りと主の御力がなければ、教会の一致は保たれませんが、それでも、私たちは、具体的に、一致のためにどんな努力をしなければならないでしょうか。たとえば、エペソ4章2、3節は、次のように勧めています。「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」

 私たちは、一つになるために熱心に努力しなければなりません。「謙遜と柔和の限りを尽くすこと」そして「寛容を示すこと」さらに「愛をもって互いに忍び合うこと」です。

 イエス様が真の主なる神であり、主に愛されている群れであることを証するために、熱意をもって、一致を保つ教会を目指してまいりましょう。

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2009.3.8主日礼拝

本日の礼拝では、ヨハネの福音書17章6~19節より「聖別された教会を目指して」と題して小池牧師よりみことばのとりつぎがありました。

先週に続きこの箇所はイエス様の祈りの箇所です。今日の箇所では弟子たちのためにとりなしの祈りをしています。そして、この弟子たちを思うとりなしの祈りは、わたしたちクリスチャンに向けられたとりなしでもあります。それは、弟子とは、教会とは何かということを語っています。では、イエス様の祈りからわかる「教会」とはどのようなものでしょうか。

①教会はイエス様に祈られている対象である

「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。」ヨハネ17:9

 イエス様は教会のために祈り、願いとりなしてくださいます。兄弟姉妹からのみでなく、主に祈られていることを覚えてください。そうでなければ存在できないのです。

②教会は父なる神のものであり、イエス・キリストに属している

「 いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。」ヨハネ17:7

 教会は主のものです。自分の価値観や世間一般の常識では教会はたちあがりません。この世から聖め別たれる必要があります。それは、教会がこの世に属するのではなく、イエス・キリストに属しているからです。

③教会は世に派遣された存在である

「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」ヨハネ17:18

 神様のひとり子がこの世に派遣されたように、教会も主なる神様のものであるのに世に派遣されたのです。そして、その教会をみことばとみ名によって守られます。わたしたははっきりと定められた道を歩んでいきます。それは、隠遁生活でも修道生活でもなく、この世にあって、聖別され、この世で光輝くのです。

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今日の礼拝

 ヨハネの福音書17章1-5節「永遠のいのちとは」と題して、小池宏明牧師より御ことばが取り次がれました。

 受難節が始まり、イエス様の十字架前の祈りの最初のところがメッセージがありました。主イエス様は最後の晩餐において、弟子たちを見つめながら弟子たちに向けてお話(メッセージ)されましたが、17章では、天を仰いで、父なる神様に目を向けて、語り始めます。

 1~5節では、イエス様ご自身が父なる神様の御心を行ない、自ら神として栄光を現わすことができるように、自らのために祈りました。(6-19節では当時の弟子たちが一致して神の栄光を現わすことができるように。20-26節では弟子たちを通して救われたすべてのキリスト者たちが、一つのなってキリストのご愛に生きることができるように、祈っています。)

 第一のポイントは、永遠のいのちについて、です。それは、明快に3節で示されています。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」

 「知ること」とは知識として理解する以上に、親しい交わり、愛し合うことを意味します。父なる神様と、子なるイエス様とに「愛され、愛する」という交わりの中に生きることを意味するのです。多神ではなくて唯一、偽りの偶像ではなくまことの神との交わりなのです。

 私たちは、いつ、どのように肉体の死を迎えるのか、分かりません。激しい苦痛の中で死んでしまうこともあるでしょう。人は必ず死にますが、如何に死ぬのか誰も分からないのです。ましてや「死の刑罰としての死」であるならば、闇の力が襲い掛かる時でもあるのです。絶望的な死、すべてを無に帰してしまうような死であることを否定することはできません。しかし、父と子との交わりがある、唯一のまことの神につながっているがゆえに永遠なのです。永遠のいのちがあるのです。

 さらに、ルカ10章の良きサマリヤ人の喩えにあるように、永遠のいのちとは、神を愛し、隣人を愛することなのです。しかも隣人とは、自分が嫌っているような、苦手な隣人さえ、愛するように求めているのです。すなわち、永遠のいのちとは、神を知って、神を愛することから始まり、最も自分が愛せない人を「愛せよ」という実践を求めているのです。愛の実践が、永遠のいのちとつながるのです。

 第二のポイントは栄光とは、何か、ということです。

 1節「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。・・・」父なる神様と子なる神様とは同じ栄光、同じ「ひかり」を持っているのです。それは永遠の昔から変わることのない輝きなのです。5節「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」

 栄光とは、神様の尊厳、卓越性、完全性などのすべての神の性質を指すとともに、この世において「まことの神」を証するものなのです。神が神であることを証するために「光として輝く」のです。光輝いて、ここに神がいるという「しるし」になるのです。イエス様は天地創造の前から輝く「ひかり」なのです。4節「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」主は地上においても、自らが神であることを証しました。そして、さらにはっきりと神の栄光を現わそうとしておられるのです。十字架の時が来ました。この17章の祈りは大祭司の祈りと言われますが、この祈りの後18章で、主イエス様は逮捕されるのです。主イエス様は、十字架と復活を通して、父なる神の御心に従って、自らが神であることを証しようとするのです。天地創造の前から持っている神の永遠性は、永遠のいのちを持っている私たちの永遠性と同一なのです。

 最後に、私たちは、確かに永遠のいのちを頂いた者である事が分かるような生活、生き様をしてまいりましょう。こうして神の栄光を現わそうではありませんか。神が神として崇められるところ(教会)があることを証ししようではありませんか。

 祈り:天の父なる神様、子なるイエス様、聖霊なる神様。あなた様の聖なるお名前を心からほめたたます。

 すべての御支配者であられる王の王イエス様が、御心にかなった私たちに永遠のいのちを与えて下さったことを感謝いたします。この恵みを一瞬たりとも、疑うことがありませんように。永遠のいのちを頂いている者として、ますます主を知り、主を愛して、苦手な隣人さえ愛して生きることができますように。私たちの生き様を通して、唯一のまことの神のみが崇められ、私たちが「世の光」として責任を果たすことができますように。

 父なる神様の完全な本質の現われであり、神の栄光の輝きであられる主、イエス・キリストのお名前を通してお祈りいたします。アーメン

 

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本日2・22の礼拝

2009年2月22日の主日礼拝は、ヨハネの福音書16章25-33節「主はすでに勝利者なり」と題して、小池宏明牧師より説教していただきました。
最後の晩餐の席上で主イエス様が語られた教えの最後のところが今朝の箇所です。

14章から16章までの説教の最後に、33節で終了しています。「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」この後、17章は「大祭司の祈り」と呼ばれる主イエス様の祈りが記されています。

「こられのこと」とは、14章から始まるメッセージすべてを受けてのことでありましょう。14章は、「心騒がせてはなりません。」とはじまり、天の父の家には住まいがたくさんあります。なかったら住まいを作りに行くのです、と語り、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。・・・」と有名な御ことばを遺してくださいました。助け主なる聖霊を遣わす、あなた方を捨てて孤児にはしません。・・・

15章では、ぶどうの実とぶどうの木の喩えから、キリストに留まるように、キリストの愛の中に憩うように勧めています。さらに、互いに愛し合うようにと戒めを下さり、私たちを「友」と呼んでくださり、友のためにいのちを捨てる、と約束してくださいました。「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」と明言してくださいました。

16章にかけて、イエス様はこの世があなたがたを憎むようになると予告してくださり、慰め主であり励まし手である聖霊を送ることを約束してくださいました。

そして、先週は、しばしの別れがあるが、また来る、必ず戻ってくると約束してくださいました。それは喜びに満ちあふれるためです。さらに主の御名によって祈り求めるならば、もっともっと喜びに満ちるようになると、約束しました。

この上で、これらすべてを語ったのは、私たちの平安のためであり、雄々しく、勇気を出して、艱難に立ち向かうためなのです。「なんじ、世にありては、艱難あり、されど雄々しくあれ。我すでに世に勝てり」

この地上に生きている間、苦難がつきものです。艱難があります。決して避けられません。しかし、失望する必要はありません。恐れることも不要です。

主が、すでにこの世に、(罪と死と滅びに)、勝利しているのです。

私たちはまだ、地上の生活を終えていませんが、すでに人生のあらゆる問題の解決している勝利者なのです。

世々のキリスト者と教会は、この世の力と、戦いの連続なのです。そして、この御ことばにどれほどの兄弟姉妹が、励ましと慰めを受けて来たことでしょうか。

私たちは、この世の中にあって、艱難があります。安易な道ではありません。しかし、勇気を出して、雄々しく闘おうではありませんか。すでに勝利は、キリストとともにある我らのものなのです。

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今日の礼拝

Ca380200 今日の礼拝では、ヨハネの福音書16章16節~24節より「奪われることのない喜び」と題して小池牧師よりみことばのとりつぎがありました。

ヨハネ16:16 「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」

この「しばらく」とはギリシャ語では「ミクロン」ということばですごく小さいことの意味です。今日の箇所ではたびたび出てきますが、もうすぐ、まもなく主は天にのぼり、そして、まもなく再びこられるというのです。

ヨハネ16:20 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」

わたしたちの嘆き悲しみは、この世ではとても長く感じます。いつまで、この苦しみは続くのか、それは永遠のようにも思えます。しかし、主に再び会うその時、この悲しみさえも喜びへとかえられるのです。そして、その時は、もうすぐなんだ、と主はいわれるのです。

ヨハネ16:23、24 「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」

主に再び会う日には私たちは満ち足りて何も主に求めたり、たずねたりする必要がありません。しかし、今、この世にあっては、主に求めましょう。たずねましょう。何でも主のみ名によって祈りましょう。

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今日の礼拝

本日の礼拝では、ヨハネの福音書21章15節~17節より「三度問われる主」と題して、小池紀子師よりみことばのとりつぎがありました。

○三度主を否んだペテロの涙

ペテロは主イエス様が捕らえられた時、3度までも「主を知らない」といいました。それは、イエス様が予告されていた通りとなり、ペテロは激しく泣きました。それは自分自身に対する嘆き、絶望の涙でした。

○近づいてきてくださる主

復活後のイエス様をすでにお会いしたペテロですが、イエス様を否んだあの出来事の後です。もうイエス様にしたがっていく資格などないと考えていたかもしれません。そんな、ペテロにイエス様は、その名を呼び、みずから近づいてきてくださいました。「あなたは、わたしを愛しますか」

○三度問われる主

イエス様は同じような問いを三度もされました。イエス様は三度否んだあの出来事で、ペテロがひどく絶望し、自分に泣いたことをよくご存知でした。ですから、自ら近づき、あえて三度問われたのです。絶望をうやむやにするのではなく、忘れさせるのではなく、もう一度思い起こさせ、それを乗り越え、それでもなお、私を愛するかと問われたのです。

○はいとこたえたペテロ

ペテロのこたえは、どうだったでしょうか。少しひねくれているのではないかともとれますが、彼はたしかに「はい。」と応答しました。イエス様を知らない、わからなくなったと思う者の嘆きを知っておられ、そこに近づき、「なぜわたしを否んだのか」と問うのではなく、「わたしを愛しますか」とくりかえし問われる主。

イエス様のわたしたちクリスチャンに対する問いは実にシンプルなのです。「たぶん愛していると思います。」とか「まだまだだけどこれから努力して愛します。」というこたえではなくわたしちは、ただその問いに「はい。」とこたえたいと願います。

「イエスは三度ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。』」ヨハネ21:17

 本日、小池牧師は、新津福音キリスト教会の礼拝で説教のご用をされました。

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2009年2月1日主日礼拝

2月1日(日)は、新約聖書ヨハネの福音書16章4-15節より、「私たちの助け主・聖霊」と題して、御ことば取り次がれました。

主イエス様は、十字架と復活を前にして、弟子たちに語りました。「あなた方は憎まれる」「迫害を受ける」と。しかし、「独りにさせない」「孤独な闘いではない」と励ましてくださいました。それは、主イエス様が、去っていくからでした。主が父の御許に行くなら、助け主として聖霊を遣わすと約束してくださいました。

16章4-7節:私たちは、当時の弟子たちのように、イエス様にお会いできたら、もっと信仰深く、主の弟子として、主を愛して、主に従って行けると思うかもしれません。あるいは、聖地旅行をして、イエス様が歩まれた道を、私も追体験したいと願うかもしれません。現にイスラム教では、聖地メッカを訪ねることが求められいます。しかし、私たちにとって、肉眼でイエス様にお会いしようが、しなかろうが、聖地があろうが、なかろうか、どちらでも良いことなのです。なぜなら、主イエス様が去っていかれたからです。時間や場所に支配される必要ないお方なのです。そもそも、世界の片隅で起きたイエスの誕生とその歩みが、世界中に伝えられ、爆発的に福音が広がったのです。聖書が世界中で読まれ、宣教師が世界中に派遣されたのです。それは、イエス様が去っていかれて、御霊様が送られたからです。

8-11節:では、聖霊は私たちに何を教えたでしょう。それは、罪について、義について、さばきについて、真理を語りました。罪とは、主イエス・キリストを信じないことです。義とは、神様との正しい関係です。イエス様が、去って行って、父なる神様と罪人の私たちが正しく関わることができるようになったのです。さばきとは、神と人との関係が正しく回復したので、この世の支配者悪魔が、断罪されるのです。世々の教会は、この教えを教義(教会の教え)として発展させてきたのです。

12-15節:聖霊様は、私たちを、父なる神、子なるイエス様の元に導いてくださり、主のみことばを取り次いでくださるお方です。このお方が、私たちの味方なのです。真の慰め主、励まし主が私たちの弁護者なのです。

安心して、主に信頼して、ゆだねて、歩んでまいりましょう。

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